視神経炎でER体験

10月24日 全てはここから始まった?

10月24日木曜日。
運転免許取得に燃えていた私は、久しく運転の練習をしていなかったよねと、ちょっと遠出して夫と子供と共に郊外の道路に練習に出かけたのだった。たった1時間ちょっとの練習ではあったけど相当疲れ果てて帰宅した私は
「なんかねー、緊張で足がこわばっちゃって……筋肉痛になりそうだよ」
などと言って夫を呆れさせていたのだけど、それから5日間、倒れることになるとは思ってもいなかった。

「風邪っぽいかなぁ?」
と思ったのはその翌日の金曜日。両足が強ばるなぁと思っていたところ、筋肉というより関節が痛いということを自覚した。少々寒気はするけれど発熱しているというわけではなく、"関節痛が出るタイプの風邪でもひいたかな"と思った程度。
しかし土曜、日曜には膝が痛くて眠れなくなり、更に膀胱炎のような自覚症状まで出てきた。ぶっちゃけて言うと、排尿痛と残尿感がある状態。何度か膀胱炎を患ったことのある私は、慌てて膀胱炎に効果ありというクランベリータブレットを購入して飲みまくるのだった。で、この時点では医者にはかかっていなかった。

ともかく足やら何やら、関節痛の嵐のようにあちこちが痛むので、痛み止めとクランベリーを飲み続けること数日間。病状はあまり良くならず、週明けの10月28日月曜日には試しに全ての薬の服用を止めてみた。止めた途端に発熱して(痛み止めは解熱剤も兼ねていたので、そのためだったのか)丸一日。自然に熱は下がり、膝の痛みも膀胱炎の症状も消えていた。とりあえずは一安心だ。このくらい、良くあることだ。

10月29日 そして足に痺れが

無事に動けるようになり、ふと気がつくと両足裏と爪先に常に痺れがある。
程度は軽く、正座して痺れた足が治りかける寸前のような、"なんとなく違和感があるけど、無視できなくはない程度"といった具合。ただ、それが就寝中も入浴中も、常に常に感じられる。ここはアメリカ、日本と湿度がかなり違うし、ちょうど冷え込む時期でもあったということで"私は冷え性じゃなかったはずだけど、環境の違いで冷え性になったかなぁ"と、これまた気楽に構えていた。

ただ、やっぱり気になる。何かの病気の前兆ではないかとインターネットで検索すると、
「糖尿病患者はそのような手足末端の違和感が出ることが」
という恐るべき情報が。
最後に健康診断を受けたのは5年ほど前。糖尿の気があるとは知らされていなかったし、4年前に出産したときもそのような事は言われていなかった。自分が飽食傾向があることは重々承知しつつ、「いや、でも、まさか、ねぇ」という感じ。なんとなくビミョーに不安感のある生活が続いていた。

11月05日 右目が見えなくなってきた!

11月5日、火曜日。
午前早くに夫は外出、それからしばらくして起きた私は、右目に妙な違和感を感じた。

元々、私の目は左目より右目の視力が悪めではある。裸眼の右目では道路標識の単語などは読みとれない。両目とも近視気味で、それでもパソコンのモニターなどは問題なく見えていた。それが、ぼんやりと黒い霧がかかったように霞んでいる。
「おんやぁ?」
と思いつつ、"まぁ、ここ数日夜中にネットサーフィンしてたりもしてたから疲れ目だろう"といつもの通り楽観的に構えてしまう私だった。夫にも特に伝えることをせず、まぁ明日になったら治るだろう、心配させても悪いしね、と思っていた。

が、翌日水曜日、具合は悪くなる一方だ。"パソコンのモニターに、うっすら文字は見える"程度だった右目は、"パソコンのモニターのこのへんにこの色の塊がある"程度しか確認できなくなっていた。黒い霧がどんどん増殖していくような感じ。
さすがに慌て、夕方帰宅した夫に相談したのだった。もう時間も遅く、今から病院の外来に……というタイミングでもなく、頼りになる人も捕まらない状態。とりあえず、薬剤師のいる薬局に行ってみた。

「あのぅ……突然右目が見えなくなっちゃって、何か薬あります?」
薬剤師さんとしては、「そんなこと言われても!」という感じだろう。肩をすくめて
「一刻も早く病院に行くことをお勧めするわ。私からは、なんとも」
という返事が即座に返ってきたのだった。そりゃまぁ、当然だ。
せめて気休めにと、疲れ目用の目薬と、目に良いとされるサプリメント"ビルベリー"タブレットを買ってみた。日本では「目にはブルーベリー」とされているけど、見たところ、サプリメントコーナーにブルーベリーは見つからず、代わりに「目にはビルベリー!」という感じでビルベリーがずらずら置かれていたのだった。とりあえずビルベリーをドカ飲み。
翌朝を待って、夫が所属する研究室スタッフMさんに相談することにした。

11月07日 大学病院へ

11月7日木曜日。
悪化している。しまくっている。気分は姫川亜弓かアンドレか、という感じ。もう右目だけではパソコンを触るどころか食事をすることすら危うい状態になってきた。
「糖尿病患者は、白内障にもなりやすい」
なんて事をネットサーフィン中に見つけてしまい、ますます「私、糖尿病??」の恐怖が高まってくる。さすがに不安も頂点になり、研究室スタッフMさんに朝一番で
「眼科のお医者さん、紹介してください〜」
と泣きついた。

通常、アメリカでは"自分の主治医(ホームドクター)"というものを持つ。
風邪だろうが何だろうが、身体の不調はまずこの主治医を通さなければいけない。主治医が診断を下し、「この症状ではここでは診られないから大病院に行きなさいね」と紹介状を書いてもらうのだ。しかも、それ、すっっっっごく時間がかかるらしい。
 主治医に予約の電話をする
 → では1週間後においで、と言われる
 → やっと診療
 → 大病院に紹介状を書いてもらう
 → でもその予約は1週間後
などという事がザラなのだそうだ。

はっきり言って、自分の病気を素早く診断してもらうには、コネ及び折衝能力が要求される。英語が不得手なことは、こういう時にはとにかく不利だ。全面的にMさんにお世話になった。

Mさんは、すぐに大学病院に電話を入れてくれた。症状を話したところ、
「……予約はいっぱいなんだけど、それは早めに診た方が良さそうね、OK、1時半にいらっしゃい。数分しか診てあげられないかもしれないけれど」
と嬉しい返事が。しかも、大学病院の中のサービス(費用はかかるけど、それは保険の範囲内)で通訳も申し込めるという。一応お願いします、と申し込んでもらった。

そして午後1時。ちょっと早めに到着し、「この問診票を埋めてね」と渡された裏表に渡る2枚分の英文ペーパーを渡された。
「た、単語がわからん……」
「こ、これは心臓病でしょ、こっちは肝臓の疾患……」
とひとつひとつ確認しようとしていたところ、
「通訳サービスで参りました、Rと申します〜♪」
と、日本人女性がすすす、と近寄ってきた。"申し込んでも、ハネられる事も多いのよね"と言われていたので半ば諦めていた通訳サービス。嬉しい限りだ。

Rさんは、米国人男性と結婚してこの地に住んで十数年。通訳としての仕事もある傍ら、本業はグラフィックデザイナーだということだ。
この時から、Rさんにはお世話になりっぱなし。この瞬間から、直接Rさんとスケジュール確認をして「じゃ、明日は○時に」と通訳をお願いするようになった。電話での診療予約などもしてくださって、本当に物事をスムーズに運ばせることができた。Rさんには感謝感謝だ。しかも愉快な人で、食いしん坊。会話はなかなか尽きず、退屈で不安な待ち時間がすごく楽しいものになったのだった。

さて、かくして「診察は数分かも……」と言われていた病院を出たのは、7時過ぎ。
主治医はラーマン先生ということだが、彼はなかなか現れない。黒人の女医さん、チャイナ系の顔立ちの黒髪の女医さん、と入れ替わり立ち替わり目玉をぎゅうぎゅう押してみたり視力を測ったり。別室へ行き、"白い巨大ボウルの中に光点が見えたらボタンを押してね"的視野測定をしてみたり、何十枚も写真を撮られたり。

やっと真打ラーマン先生も登場したが、この日にわかったことは
「普通の検査で視認できる症状が無い。白内障でも緑内障でも網膜剥離でもない。右目の視神経がわずかに腫れていることは確認できたけど、見えない原因はそれだけでは不明。ただ、確かに右目の視力が極端に低下しているという事実は確認できた」
ということだった。
「ウィルスでそういう症状が出ることもあるし、そうではないかもしれない。これは治癒する病症だと思うけれど、今のこの現状から回復傾向に転ずるか、もうちょっと悪化してから回復傾向になるか、それは断言できない」
と、いかにもな英語的もってまわった言い回しで説明を受けた。ラーマン先生、「天空の城ラピュタ」の悪役、ムスカにちょっと顔が似ている。「悪人だ……悪人ヅラだ……」「しかもムスカは最期、"目が、目がぁ〜"とか言いながら死んじゃうのよね」とどうでも良い事を考える私。その話し方がまた、ちょっとムスカっぽくて微妙に不安になる。

「明日は血液検査を受けて下さい。あと、MRIも申し込んで、できるだけ早くその検査も。ただし、今はもう受付が閉まってしまったから、予約は明日の朝一番のタイミングで入れることになりますが」
と、伝えられ、今日の診断は終了した。
想像していた以上にダイナミックな展開になってしまい、さすがに不安になる私。
MRIって……確か身体の断面をスキャンするものじゃなかったっけか。私の脳の輪切りを確認しなきゃいけない事態って、一体。

11月08日 血液検査とMRI

金曜日。今日は朝8時45分、受付が開くのと同時くらいに病院へやってきた。通訳Rさんにも来ていただいた。
しかし、右目は悪くなる一方だ。どんどん右目は霞んで暗くなっていく。左目に当てられると眩しくて仕方のないライトは、右目だと「あ、なんか明るいかも」くらいにしか感じない。

早速受付で、
「MRIの予約を入れるように言われました」
と、検査予約の申し込み。んが、受付女性曰く、
「えっと……MRIの予約なんだけど、いっぱいいっぱいなのよね。"急ぐように"とは先生から聞いてるわ……でね、えっと……20日の水曜日、とか……ああ、12日の火曜日、夜8時からなら何とかなるみたい」
と、MRI部門とのやりとりを受話器を右耳に当てながら、そんなことを言ってくる。あああ〜、急ぎだというのにそれでも4日後。

絶妙のタイミングで、主治医ラーマン先生(ムスカ似)が受付を通りかかってくれたのが幸いだった。
「あの……今日もまたまた悪化してるんですが、MRIは火曜日が最短と言っています」
と、訴えてみる。

それからのラーマン先生は凄かった。これからすぐに、手術執刀の予定が入っていると言っていたのに、おもむろに「MRIの部署の電話番号はどれだぁ!?」と受付に聞くやいなや、自分で電話をかけ始めた。
「もっと早くだ!とにかく急ぎだ!」
とゴネまくるラーマン先生。いよいよ執刀時間が迫ったのか、途中から電話を若手医師ジョンソン先生に押しつけ、
「とにかく今日、MRIやるから」
とラーマン先生は去っていった。す、すげぇやラーマン先生。
そしてめでたく、MRIは本日の夕方4時に予約が入ったのだった。やっぱりアメリカはコネと折衝能力がモノを言う。しみじみ感じた一件だった。

午前中は、採血ブースで血液検査。小型試験管っぽいアンプルにたっぷり3本、血を抜かれた。
そして夕方、人生始めての「MRI」検査。
「MRI」とは、「Magnetic Resonance Imaging」の略で、日本語にすると「磁気共鳴画像」なるものらしい。「磁石と電磁波により、体内の水素原子核から出る共鳴信号を画像にする」というものだ。とにかく人体の輪切り映像が撮れちゃうナイスな機械であるらしく、脳腫瘍や神経の異常があればこれで発見できるということだ。

問診票で「体内に入っている金属弁などはあるか」などといった細々した質問に答え、アレルギーの有無、妊娠の可能性、なども問われる。髪留めを外し、指輪を外し、一応ベルトなども外し、いざいざ巨大マシーンの中に。
細い寝台に寝っころがり、"狭すぎるカプセルホテルの内部"みたいなところに詰め込まれた。
「音がけっこううるさいと思うので」
と耳栓を詰めてもらい、
「何かトラブルがあったら、手足をパタパタしてくれば私たちには見えるので」
と指示を受け、あとは基本的に身じろぎせずに硬直したまま、恐怖輪切り映像体験だ。

「カッコンカッコンカッコン」
なる金属杭をハンマーで打ち付けるような音が合間に数度響き、あとは
「ブブブ、ブブーン、ブブーン、ブブーン」だの「ヴィイィイィイィイ」だの「ミャヤャヤャヤャヤャヤ」だの、私の頭の周辺は不快音が盛り沢山。貴重な体験だったとは思うけど、正直な話、あの状況をあと2時間続けられたら私はあることないこと自白し始めてしまうだろう、そんな状況だった。
「ああ、脳が輪切りになっています、電磁波で刻まれています」
と本当にそんな感覚が沸き上がってくる。なかなかの恐怖体験だった。

病院2日目はそんな感じで暮れ、検査結果は週明けの月曜日に、ということに。
まだ治療は1つも始まっていない。

11月11日 ERで点滴を・1日目

9日は土曜日、10日は日曜日。大学病院は週末はきっちりお休みとのことで、検査の結果報告も治療開始も週明けということになった。
何か治療を施されているわけでないので、右目の状況は着々と悪化の道を辿っていく。
「もうこれ以上は悪くならないだろう」
と思って寝ても、次には更に暗くなる右目にはさすがに不安を覚えてしまう。

しかも、未だ続く足の痺れなどを考えると、「MS (Multiple Sclerosis) 多発性硬化症」なんて病気ではないかという疑惑も浮上してきた。脳と脊髄の神経繊維を覆う脂肪質「ミエリン」を自分自身で攻撃して壊してしまう神経病である「MS」は、日本では難病指定の神経病だ。完治することはなく、発症と鎮静を繰り返す少々やっかいな病気らしい。
……あまり深く考えないことにした。

そして11月11日、月曜日。午後1時すぎ、Rさんと病院入り口のエレベーターホールでばったり会い、そのまま2人で眼科に向かった。
「血液検査、異常無し。MRIも、全く異常無しです。……あえて言えば、視神経がちょっと腫れているという程度で……"MS"を示す顕著な印というものは全くありません」
これが、注射針刺されたり巨大な機械に突っ込まれたりした結果だった。
ラーマン先生(ムスカ似)は、脳腫瘍を心配していたらしい。ほっと一安心、という感じではあった。

「……で、病名は?」
と聞くと、
「視神経炎……ですね」

「……原因は?……ストレス、とか?」
と聞くと、
「う〜〜〜ム〜〜」
と詰まるラーマン先生。

「原因がわからないので何なのですが、ステロイド投与を私はお勧めします。今日を含めて3日点滴をし、数日様子を見る。その後は経口ステロイドに切り替えるか、再び点滴するか、どちらにしても徐々にステロイド量は減らしていきます」
と、やっと治療の指針が示された。
「ステロイド」、良く聞くホルモン剤だ。アトピーなどの治療薬として使われているけれど、副作用がたっぷりあるので嫌われている薬だ。だけど、右目が治るならなんでもOKという気分ではあった。

診察はそれで終わり。だが、
「点滴、あなたの自宅に看護士が出向いて処置してあげたいのだけど、保険の確認が通らない」だの、
「だから内科から、今、眼科に点滴に来るよう呼び寄せています……けど、来ないですね」だの、
待たされる待たされる待たされる。2時過ぎに診断がくだされ、しかし内科には点滴待ちの人が20人以上いるということで、一向にステロイドは私の元に来ないのだった。

ラーマン先生はラーマン先生で、
「あ、もう君は重篤な患者じゃないとわかったから、僕はもっと重病人の方に行くんだよ」
という態度がアリアリと出てしまっていて、担当はいつのまにか若手のジョンソン医師になっている。コネと折衝能力がモノを言う病院内において、ジョンソンは少々(いや、非常に)頼りなかった。
とうとうステロイド待ちで5時に。

「ラチがあきません。ERに一緒に行きましょう!」
ついにジョンソン医師が、実力行使に出ようとしていた。
「ER」とはEmergency Room(緊急救命室)。ドラマで放映されて「ER」の名は私も聞いたことがあった(というかあのドラマ、好きだったんだな)。
緊急である。救命である。私の状況も確かに切羽詰まってはいるんだけど、そんなとこ行っちゃっていいのか、という気分だった。

そして、生まれて初めての「ER」。
病院内部からパスワードを入れなければ入れないその一角に立ち入ったのだけど、そこの空気は明らかに他と違っていた。青い半袖シャツとズボンを着用したスタッフたちが、心持ち急ぎ足でパタパタと動いている。その手には諸々の機械が掴まれており、廊下にずらっとドアが並ぶ4畳半ほどの各処置室には"いかにも重体"といった風情の人々の足や手が見えた。そこらへんにエクトプラズムが充満しています、といった空気だ。正直、あまり長居したくない場所だ。……と言いつつ、
「うぉー、あのドラマそのものみたいだー、うぉー、ERそのものだー。ひょぇ〜」
と微妙に感動している私もいる。

ジョンソン医師、
「いや、眼科からそんなオファーは貰ってないな」
などと言っている受付の人にくらいつき、「Fast Track」(初期処置室、という訳で良いのかわからないけど、まぁそういう所)のブースに私とRさんを引き渡し、せかせかと眼科に戻っていった。

そしてERのチェックイン手続き。
2枚の紙にサインをし、その後脈拍、血圧測定。腕には紙製の住所名前電話番号が記されたタグがつけられ(これで私が死んでも私が誰だか分かる、と……)、そして最終チェックインサイン。カウンターで
「弁護士はいます?」
「遺書の準備はあります?」
なる質問をされ、「ありませんありません、そんなんありません」と首をぷるぷる横に振るばかりの私だった。もう、何が何やら。重病気分が盛り上がる。

もう病院内の各科は受付を終了している時間帯だったので、ERには病人が溢れ返っていた。一点を見つめて動かない中年女性、両足にこれでもかと包帯を巻いている男性。ERの中に居る誰かを待っているのか、一心不乱にサンドイッチとパフェを食べまくっている巨体のおばちゃん2人組、なんてのもいた。
病院内部からの打診ということもあってか、私の処置は比較的早く進んだ。

「Fast Track」にこの晩、詰めていたのはレイチェル先生。ジュリア・ロバーツを日本人好みな方向に小ぶりにしたような、素晴らしく美人でナイスバディな先生だった。
「うわぁ〜」
「まつげ、パチパチ」
「髪の毛、ふわふわ」
「美しい〜」
「天使みたい〜」
右目が見えないのを忘れて妙にときめいてしまう私。少々待たされたものの、処置室の入り口近くに置かれた車椅子の上で、無事にステロイド点滴は終了した。

右手の甲にブッスと針を刺され、
「あとはカートリッジ変えるだけだから痛くないわよ。ね?」
と、血を抜かれ、血液非凝固剤を入れられ、そして点滴。腕の先から、ひやっとする液体がツルツルと身体に入っていく感触は、点滴の経験などほとんどない私には何ともいえぬイヤなものだった。点滴が終わる頃には、何だか口の中が苦い味で満たされていた(3日点滴して思ったけど、やっぱりステロイド点滴をすると口の中が暫く苦くなったのだ、いや本当に)。

もう時間は8時を回っていた。私も疲れていたけど、通訳にずっとついていてくれたRさんの疲労も大変なものだろう。よれよれしながらERを後にした。
「明日も点滴、するのよね?明日は眼科に行けばやってくれると思うけど……いっぱいだったらまた私がやったげるわ♪」
と帰り際にウィンクしてくれたレイチェル先生。
……このおねぇさんにはまた会いたいと思いつつ、でもERには正直、もう来たくなかった。「生死の境」みたいな匂いがそこかしこから漂ってきて、ちときつい。

11月12日 ERで点滴を・2日目

ステロイド点滴1日目を終え、病状はいきなり回復傾向に転じ始めた。
異変が起こって1週間弱。回復にはもう少し"溜め"とか何かがあっても良さそうなものなに、明らかに私の目は良くなりはじめたのが自覚できる。ちょっと嬉しい。

点滴予定2日目の朝は、私の代理で眼科に電話をかけてくれた、Rさんからの怒りの電話で始まった。
「今日と明日の点滴の予約、眼科受付が"そんな話はドクターから聞いてない"って入れてくれないんです〜」
とのこと。
ああもう、まったくもう、とにかく話して動かなければ何も始まらないのがアメリカだ、という感じ。

それから数時間、Rさんが幾度となく眼科に電話をかけてくれ、
「今日はラーマン医師は休診で、秘書の方とも連絡を取っていたのですが、本日勤務のジョンソン医師と話ができました。彼曰く、"今日と明日もERに行って点滴せよ"と」
と、やっと指示が出たと連絡をくれた。

「ジョンソン医師、よっぽど人脈がないんでしょうか」
「いや……その日のうちに絶対点滴が打てる部門ということで、彼なりの選択だったのでは……」
「いや、でも、頼りないですよねぇ」
「ですよねぇ」
と電話でニヤニヤ会話する私とRさんなのだった。ともあれ、本当は行きたくはないER、今日と明日も行くことが決定した。時間はいつでも良いそうだ。適当に行って、
「眼科からここに来て点滴打てと言われたんだゴルァ」
と言えば良いらしい。
それだけならば私(と夫)の語学力でもなんとかなりそうだと、今日明日はRさんの助太刀抜きで病院に行くことにした。

午後1時、再びやってきたER。
昼間ということで、昨夜ほどの殺伐とした空気は感じられなかった。患者の数も全然少ない。
「ああ、昨日来たのね。で?今日は何?眼科に行くようにって昨夜指示したと思うけど?」
と受付のおばちゃんに言われ、
「いや、その眼科に予約の電話を入れたんだけど、"もっかいER行って点滴してこい"と言われました……」
と答える。OKわかったわ、と比較的簡単に、昨日と同じ脈拍血圧体温計って、腕輪巻いて、とチェックイン手続きが完了した。

ER、入り口は大変にものものしい。金属探知のゲートがセットされ、手荷物もチェックされる。見張っているのはガードマンじゃなくてポリスマンだ。

あとは中から呼ばれるのを待つだけ、という状態でソファに座る私と夫の向かいには、左の手首あたりをタオルでぐるぐる巻きにしたお兄ちゃんが座っていた。露骨に痛そうな顔をしているし、何やら刃物か何かでザックリやっちゃったような風情。その姿はいかにもな"急患"といった感じで、
「あああ、私なんかより、そっちの兄ちゃんを先に診てあげてよ……」
と祈りたくなるほどのものだった。

そしてほどなく、今日も「Fast Track」に案内される私。
昨日はそのブースの入り口脇の車椅子で処置されたのだけど、今日はブース内の小部屋に案内された。背もたれがしっかりとある、昨日よりはゆったりと座れる場所になっていた。

今日担当してくれたのは、長い三つ編みが背中の中程にまで伸びている、小柄なおばちゃんだった。"もうね、点滴なんて何千回もやってるからまかといて!"といった風情で、てきぱきと作業する。しかも、上手い。
「昨日はこっちの手に打ちました」
と右手の甲を出すと、
「OK、今日は逆にしましょうね」
と左手の甲に針を入れる。全く痛くないと言えば嘘になるけど、それでもほとんど痛みはなく、どこかのんびり気分の点滴だ。

そして私の部屋の向かいの部屋に、先ほどの"タオルぐるぐるお兄ちゃん"がやってきた。椅子は寝台状に倒され、白い布が敷かれ、ちょっと騒然とした空気の中、
「仕事の……チェンソーを当てちまって……」
「あらら、これは酷いねぇ」
といった会話が聞こえてくる。こちらのドアもあちらのドアも半端に開いていて、丸見えとはいかなくても諸々の映像や音声が私のところにもバシバシ届く。
ドアの向こうの廊下には真っ赤に染まったタオルや包帯が運ばれていくのが見え、
「破片を外しますね」
と言ったような医師の言葉の後には、押し殺した悲鳴がえんえんと聞こえてきた。
「ノオォォォォォ」「シ〜〜〜〜ッッッット」「……アウチッ!アウチッ!」
と、歯の隙間からこぼれるような声が私の耳にきっちり届いてしまう。

あああ、"いかにもなER的展開"が我が目の前に。
見ちゃいかん、と心のどこかで思いつつも、点滴打ってる左腕にグググッと力が入って中腰体勢になってしまう。ついつい目線はそちらの方へ固まってしまう私だった(おかげで自分の点滴が非常に早く終わったなぁという感想が……)。

処置終了後には、
「明日の朝、眼科に電話をしてフォローアップを依頼します」
「今晩中に目の悪化や痛み、異変が起こった時にはERに戻ります」
と指示された紙に、終了確認のサインを。
「いやでも、あの、主治医は"明日もERに行くように"と今朝指示してきたのですが」
と言ってみたところ、
「そうね、わかるわ。でもここは"ER"なの。緊急の患者さんが来るところなの。だから明日、もう一度主治医に確認して。ね?」
と即答された。

ええ、私はここに来ちゃいけない患者だってのは重々承知なんですが、でもでもでも。

11月13日 ERで点滴を・3日目

窓を眺めた時、「ただそのへんがボーっと光って見える」という程度だった私の右目は「それは窓で、ブラインドがかかっている」というあたりまで視認できるまでに回復した。パソコンのモニターも、ただ光っているだけであったのに、「このへんにこの色が見える」程度までは判別できる程に。文字を見るのはまだまだ無理だけど、嬉しい展開になりつつあった。

幸い、副作用らしき副作用も感じられていない。
「ちょっと鬱っぽくなるかも」とは言われていたものの、どんよりすることはなく、逆に妙な高揚感を感じてしまって胸がざわざわしているかな、という感じ。ざわざわしていて、ほんのり不眠気味だけど、副作用としては可愛いものだと思う。

そして点滴、3日目。
「ERで"医師にもう一度指示を仰ぎなさい"と言われちゃったんですが」
と通訳Rさんに相談。
「いや、でも、"3日続けてERへ行け"と言われたことですしね」
「このまま今日も押し切って"医者からここにまた来いと言われたんだ!"と行くしかないですよね」
という方向で固まった。午後12時過ぎ、眼科には寄らずに直接ERへ。病院全体がオープンしている時間帯だと、ERもそれほど殺伐とした空気はない。今日はタイミングもよかったのか、2時間ほどで全てが終わった。

今日もまた「Fast Track」。担当は、昨日と同じ"三つ編みおばちゃん"だった。
「あらー、やっぱりまた来たのね」
と言われ、
「あっはっは、また来ました」
と挨拶。「ERは"緊急の"ためにあるの、わかる?」というような事を言いつつも、でも決まったことには従うというか、別にアナタが悪いんじゃないものね、といった態度で、スタッフの皆さんはおしなべて親切だ。優しい。
今日の処置は入り口脇の椅子、しかもごくごく普通のただの椅子に座っての点滴だった。どこからか点滴パックをぶらさげる架台が持って来られ、人が出入りしまくる部屋の入り口で、ボヘーッとしながら点滴治療。

「処置そのものは早くできるんだけどね、薬局の仕事が遅いのよね……」
などと呟きながら、三つ編みおばちゃんは自ら生理食塩水のパックとステロイドの小瓶を取りに行き、さくさくと処置し始めた。
「えっと、2日前は右の甲、昨日は左の甲」
と手をひらひらさせて「どっちにします?」と言ってみると
「同じ血管だとねぇ……可哀相よねぇ……」
と私の手をプニプニ触った挙げ句、
「あらぁ、ここにビッグな血管があるじゃなーい」
と今日は右手首にブッスリと。内出血も何も残さないおばちゃんの手際は今日も光っていた。

11月14日 そして経口ステロイドへ

3日間の点滴を終え、ますます良くなる私の病状。ごくぼんやりながらも、モニターの文字まで見えるようになりつつある。しかも、オマケなのか何なのか、ずっと続いていた足の痺れが徐々に無くなってきてもいる。
今日は眼科の検診だ。

主治医ラーマン先生(ムスカ似)は、通訳Rさん曰く「インド系の訛があるように感じられるのだけど……」との事。確かに若干聞き取りづらい英語ではある。しかも早口。
診察室に通され、別の医師に視力測定などをしてもらった結果の紙を見るや
「貴女の回復を心からお喜びします。まだちょっとあるけど、ともあれおめでとう」
とニコニコ。診療で顔を合わせた当初はいつもカリカリした感じで慌ただしく、ちょっと怖い人と感じていたけれど、今日のラーマン先生は菩薩のようだ。カリカリしていたのは、単に私の病気が進行性のヤバいやつだったらどうしようかと焦っていた顕れだったのかもしれない。そう思うと、内心「ムスカムスカ言ってゴメン、ドクター」と思ってしまう私だった。

「で、もう経口ステロイドは飲んでるの?」
と、先生。いや、ステロイドの処方箋を書くのは主治医のアナタで、アナタはまだ書いていないのに私が飲んでるはず無いじゃないですか先生。

「あ、そう。では今日から経口ステロイドで。14日分処方しますが、10日間は同量、それから4日かけて半量ずつ減らしていくことにしましょう。次回の診察はその投薬終了後……12月5日あたりで。OK?」
展開、早い早い。
「貴女の病状について相談していた神経科医がいるんですが、彼にも一度診てもらった方が良いと思います。それは急ぎたいところではあるけど……彼の予定も詰まっていて、1月半ばあたりに」
と、2ヶ月後の神経科医の検診予定も詰められた。

まだ「MS」の疑いは、抜けきってはいない……ということだろうか。
結局原因はわからず、生まれて初めての"右目の視力低下"が今回限りのものなのか、再発の可能性が高いものなのか、それもわからないということだ。
不安は若干残っているけれど、ともあれ最悪の状態からは抜け出せた、発症から10日目の今日。完治祝いまでもう少し。

1月15日 「おそらく再発もないでしょう」

10日間の経口ステロイド服用を終え、12月5日に再び病院へ。徐々に量が減少していくステロイドを毎日飲みながら、きっちりニューヨーク旅行を楽しんできた。気になる副作用もそれほどはなく(点滴していた時に感じた眠れないだの気分が高揚するだのというものは、薬の量の減少と共に随分軽くなった)、ステロイド特有の"ムーンフェイス"(←顔がぱんぱんにむくんで膨れあがっちゃう恐怖の副作用)も、どうやら起こらかったよう。

サンクスギビング休暇を終えた12月5日に会ったラーマン先生は、別人のように顔つきが変わっていた。確か前はもっとシャープな顔だったはず。顔のラインは滑らかに丸くなり、どうも全体的にお太りになられた様子だ。にこにこと診察をし、
「うん、順調ですね、では来月に予約通り神経科医に診てもらってください」
と1時間ほどで診療終了。
しかし、先生……丸っこいよ。
「先生、太ったよね」
「わかった!サンクスギビング太りだ!」
「ターキーの食べ過ぎかぁ!」
と密かに盛り上がる私とだんなだった。

そしてそこから更に1ヶ月後の2003年1月15日。
治療前に行った「視野測定」の検査を行い、思い切り正常値に戻ったことが数値でも確認できた。神経科のお医者さんは、赤いベストに赤地にスヌーピーのイラストがついたネクタイ、というやたらと派手こい出で立ち。白衣は着ているけど今ひとつ医者に見えない格好だった。
細いライトで目を照らしつつ私の眼球を左右交互に眺めた後、先生はおもむろにインターンらしき助手さんを2人呼び寄せ、
「こっちが病気だったほうね、で、こっちが正常なほう」
と説明しながら私の目に光を当てまくる。いいい、一体どうなってるんですかおっきな腫瘍でも残ってますか、と少々不安になったものの、
「大丈夫、ばっちり快復しています。おそらく再発もないはずです」
とにこやかに"治療終了宣言"がなされたのだった。

治療費は全て保険で。保険でカバーできない通訳費は病院のサービス、ということになった。
病院からの明細を見ると、今回の病気でかかった費用は4300ドル強。3300ドルほどはMRIの検査費、そしてERに通っての点滴代が1日400ドルくらい。ERに行ったというだけで1回につき250ドルも請求されているのだから、「保険しっかりかけといて良かった〜〜〜」としみじみ感じたのだった(保険に入っているということで、お医者さんも多少無理してERにねじこんでくれたんだとも思うし←そうでなければ一体どれだけ待たされることになったことか……)。
ともあれ、アメリカに来て病院沙汰(しかもER体験つき)というのは貴重な体験だったと思う。完治した今だから思えるのかもしれないけれど。